※車内の位置関係が分かりにくい場合、上の絵をご参照ください。(I)が私です。
3月のある朝、快速電車に乗り込むと、混み合った車内で執拗に何かを覗き込む怪しい男がいた。やがて男は、私の目の前の男女と無言のコミュニケーションを取り始める。私以外の乗客はまったく気づいていない。彼らは一体、何をしようとしているのか……
なおこれはエッセイ(実話)です。
身柄確保!
3月も終わりに近づいた朝の通勤時のことだ。
同じドアに並ぶ乗客の中に、トレラン迷惑オヤジが見えたので、避けるようにして朝8時過ぎの快速特急に乗り込んだ。
そのオヤジは、吊り革につかまって、片手でスマホの操作をするときに、手や腕を、私の背中や脇腹あたりでごにょごにょ動かすのだ。
それで何度も不愉快な思いをさせられていた。
このあいだスマホを覗き込んだら、トレイル・ランニング愛好者の Facebook を次々と見ていたし、眼鏡を額の上に掛け、いつもランニングジャケット風の上着を着ていたから、そう名付けた。
乗り換える次の停車駅では奥のドアが開くので、できるだけ前に進んだ。
閉じている側のドアと座席と座席との間のスペース――乗降口――の手前、ちょうど吊り革の下がる辺りで、ナイロン製の黒いパーカーを着た、 190cm はあろうかという長身の男の背に行く手を阻まれた。
もっとドアに近づいておきたかったが、男は絶壁のように立ちはだかっており、それ以上進むのは難しかった。
ゆったりとした上着なのでシルエットはわからないが、後ろから押されてぶつかった時の感覚では、かなり頑丈な身体をしているようだった。
たすき掛けにされた、これまたナイロンの安っぽい黒いビジネスバッグは身体に沿って曲がっており、中身はほとんど入っていない様子だった。
その男とドアの間にはふたりほどの乗客がいる感じだ。
私の右斜め前、座席横の手すりではサラリーマン風の肥った男が少年漫画の週刊誌を広げていた。30代半ばから40歳くらいだろうか。
一方、トレラン迷惑オヤジは左側の少し離れた位置に落ち着いたので安心した。
混雑はしていたが、ぎゅうぎゅう詰めというほどでもない。
誰かしらとは接触せざるを得ないが、誰かに押し付けられるということもない、という程度の混み具合だ
と、後ろから、泥の海を泳ぐようにして、かなり強引に女が進んできた。
車内は乗車時の混乱が収束して落ち着いたときだったので、なんなんだ、と思った。
私の左前、壁男のすぐ横で止まった。
女の身長 160cm ほどで、セミロングの髪は雑に染められた茶色だ。
紺色の厚手のウールのコートには毛玉がこれでもかと浮き上がっている。
電車が動きだした。次の駅まではおよそ10分。
いつものように暇つぶしに車内の様子を眺め回した。
すると、強引女のすぐ向こう、ひとり挟んだところに、首を伸ばして何かを覗き込む動作をする挙動不審な男がいた。〝怪しげな男A〟としておこう。
男は強引女の方を向いて立ち、首を左に傾げながら、ドア側の下の方を、背伸びするようにしてさかんに覗き込んでいた。
覗き込んでいる先は、壁男に遮られて私からはまったく見えない。
前の乗客の背中越しにスマホの画面でも見ているのかと思った。
それにしては何度もするし、スマホ画面を見るとしたら一度当たりの時間はずいぶん短かった。
だけど、よほど興味があるにしても背伸びまでして覗き込むだろうか?
怪しげな男Aは細身で、染みの目立つ赤黒く陽に焼け顔には無駄な肉が一切ついていなかった。
短く程々に整っている髪は、どうやら安い床屋で切ってもらったらしかった。
怪しげな男Aは依然として執拗に何かを覗き込んでいた。
すると、ふと私の前の壁男に目配せをした。
私から壁男の顔は見えないが、何度かそういうやり取りがあり、ときどき壁男がうなずいたりしていたから、たぶん間違いない。
壁男は、〝怪しげな男B〟に昇格した。
Aとのやりとりの最中、怪しげな男Bは、吊り革の下がるパイプを掴む左手の手首にはめたシチズンのアナログ時計を何度か見た。
文字盤は青みがかった紫色で、12時と6時だけがローマ数字になっていた。
あまり高そうなものではなかった。
性能は分からないが、少なくともセンスはよくなかった。
よくよく見ていると、怪しげな男たちが普通の人ではないように思えてきた。
韓国か北朝鮮のスパイ? ふたりに共通するなにかがあった。
鍛えられている感じで、センスが悪く、安っぽい。
いや、人間が安っぽいというわけではなく、着るものや持ち物には金を掛けないという雰囲気が漂っていた。
他の乗客は自分の世界に閉じこもるか、あるいは居眠りするかで、怪しげな男AとBに注目しているのはどうやら私だけのようだ。
あまりじろじろ見るのもなんだから、ときどき右前のサラリーマンの広げる少年誌を見た。
原始時代のような舞台で筋肉隆々の男たちが戦いを繰り広げているらしかった。
『進撃の巨人』に影響を受けたのか、男たちの皮膚は筋肉が浮き上がったように筋張っていた。
ストーリーまではわからなかったが、漫画の想像力は大したもんだとあらためて思った。
自由に新しいことをよく考えるよな、って。
それからまたふたりに注目した。
怪しげな男Aはまだ何かを覗き込んでいた。
怪しげな男Aのすぐ近く、少年誌サラリーマンの向かい側の手すりにもたれてうとうとしている初老の男(Z)を、別の方向を見る振りをして観察しているのかとも思ったが、定年退職間近の事務系サラリーマンっぽいその初老の男が誰かに注目される何かを持っているとは思えなかった。
怪しげな男Aは今度はスマホで LINE を始めた。
それからまた、怪しげな男Bを見た。
Bはうなずき、Aに向かって口を動かした。
私はイヤホンをしていなかったし、これだけ近くにいるのに何も聞こえなかったから、壁男Bは口の動きでAに何かを伝えたらしい。
そうとしか思えなかった。
向こうで怪しげな男Aが LINE を始めたのとほぼ時を同じくして、強引女がスマホで LINE を始めた。
ん? なんだか、タイミングが合い過ぎていた。
いや、たぶん偶然だろう。
朝の混雑電車のスマホは、ゲームか LINE か facebook か、あとはネットニュースかネットショッピング、メールくらいだ(稀にドラマや映画を観ている人、ごく稀に電子書籍をを読んでいる人もいるな)。
ふたりの人間が LINE をほぼ同時に始めたとしても、おかしくはない。
ところが LINE を始めるや否や、強引女が私の目の前の怪しげな男Bを見上げた。
並んで立ってはいたが、強引女はそれまでまったくBと関係がある素振りを見せていなかったから、え? まさかな、と思った。
でも、女の視線は間違いなく怪しげな男Bに向かっていた。
考えてみれば、女は乗り込んできた時も狙ったように怪しげな男Bの真横に入ってきたのだ。
女は美人ではなく、でも不細工でもなく、魅力的というのではないけれどどこかしら注意を引くものがあった。
なんというか、普通に会社勤めをしている女性とは違う何かが。
さらに今度は、怪しげな男Bが強引女に顔を近づけ、なにか囁いた。
まあ、怪しげな男Bの左の頬が動くのが見えただけだけど。
どう見ても、ふたりは親しい関係のようだ。
この三人はグル? グルなんて思ったのは、三人でなにかを企んでいるように感じられたからだ。
あるいはまさか出会い系を使って電車で待ち合わせてたとか? なんて変な考えが浮かんだ。
だって、変だろう? でも、三人からはそういう浮ついた雰囲気は感じられない。
もしかして、あの初老の男がそこそこの大金を持っていることを掴んで、それを狙っているとか?
それとも見た目に寄らず、企業の機密情報を持っているとか?
作戦が決まったのかどうか、駅が近づくと、三人の動きは落ち着いた。
LINE をしていたはずの女のスマホは、いつの間にか Google の検索画面に変わっていた。
三人がそれ以上のアクションを起こすことはなかった。そのまま電車は次の駅に到着した。
電車が停まり、ドアが開いた。
すると、三人はちょっと普通じゃない勢いで電車を降りた。
無理矢理というのではないけれど、かなり力強く、相当急いでいる感じだった。
まるで、なにか標的に向かっているかのように……。
私はすっかり置いていかれた。もっとも追うつもりもなかったけど。
乗車を待つ列を抜けると、黒いウォームアップスーツを着た背の低い男が、怪しげな男AとBに両脇を抱えられているのが見えた。
抱えられた男はぐったりした様子で、まるでぶら下がるようにふたりに支えられていた。
気分の悪い男を支えてやっている? 一瞬そう思ったが、どうもそうではないようだった。
支えるにしては、男たちの腕に力がこもり過ぎていた。
そしてウォームアップスーツの男は不自然なほど脱力していた。
怪しげな男AとBの横顔は、「観念しろ」と言っているように見えた。
いったい、なにを?
後ろ髪を引かれる思いで、乗り換えのため、私は男たちとは反対の階段の方に踏み出した。
すると、すべての謎が解けた。
強引女が、短いスカートをはいた女子高生を抱きかかえるようにして、「大丈夫? あなた、痴漢被害にあっていたよね」という顔で覗き込んでいた。
……おしまい。
いつもぼおっと電車に乗っていましたが、こんなことが起きているのですね。おもしろかった。
日常の中に起きてしまう犯罪行為。その一部始終をしっかり描いていらっしゃるので、とても臨場感があり、楽しく拝見させていただきました。人々の連携は、すごいものですね♪