『森の図書室、カザルスの夜』は京都大学吉田寮から始まった。と言っても、僕は京都大学に所属していたことはないし、吉田寮に足を踏み入れたこともない。
博士課程の学生だった頃、観測機器の製作方法を教わるため、後輩数人を引き連れて、京都大学吉田キャンパスにあるS先生の研究室を訪問した。
迎えてもらった時だったか、昼食の時だったかは忘れたが、S先生とキャンパス周辺を歩いていると、樹木の繁るその奥に異様な存在感を放つ古びた建物が在った。S先生は、「これが吉田寮です」と教えてくれた。私は初めて聞く名前だったが、先生の言葉には、〝あの有名な〟というニュアンスがあり、誇らしげな響きがあった。はっきり覚えてはいないが、先生も学生時代に住んでいたのだったと思う。確かに、その建物は、まるで長い時を生き延びてきた生物であるかのような風格を備えていた。
吉田寮を見たのはほんのわずかな時間だったが、その強烈な印象はずっと記憶に留まっていた。
そして吉田寮は少しばかり形を変えて、私の夢の中に登場した。夢の中でのそれは妖気を醸し出す宿泊施設になっていて、私はそこに泊まる羽目になるのだ。
その夢こそが、『森の図書室、カザルスの夜』の原型であり、その宿泊施設が公民館のモデルとなった(ただし、公民館のモデルにはもうひとつ別の建物がある)。
だから、あの物語は、〝吉田寮〟にインスピレーションを得て生まれたと言っても過言ではない。
建築物にだって——その歴史や居住者などの総体として——生命や魂を持つものがある。吉田寮は京大の歴史の中で決して小さな存在ではないはずだ。その扱い方によっては、京都大学本体に影響を及ぼすことも考えられなくない。
せめて、百年後に、未来の京都大学の先生が、私のような訪問者に対して、「これが2代目吉田寮です」と誇らしく言えるような代わりのものを用意すべきだと思うのだ。
それができないのであれば——強制退去を一方的に突きつける人間にできるはずはない——、そのあり方を未来に向けて話し合うべきだろう。
2024-06-29追記:
京大による、吉田寮からの学生の強制退去と取り壊しの問題は、NHKでもドラマ化されていたらしい(たまにはやるじゃん、NHK)。僕がハマったテレビドラマ『エルピス』の脚本・渡辺あやさんの関係作品を探していたら、Amazon Primeで『ワンダーウォール 劇場版』(2020年)があったのだ。資本の論理によって、こういう文化の坩堝《るつぼ》的な場所をどんどん潰していくから、日本はどんどん痩せ細っていくのだ。
2018-10-31